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2013.06/02 [Sun]
NHK大河ドラマ 八重の桜 第22回「弟のかたき」 あらすじ&感想
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大河ドラマ 八重の桜 第22回「弟のかたき」
最新の回のあらすじ&感想はこちらをクリック↓(「八重の桜」各話あらすじ&感想)
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慶喜公のお命だけは奪いもはん・・さて、そげんなれば振り上げた拳をば、どげ下すかじゃな・・・西郷の笑みが意味する、次なる矛先は!?
NHK総合20:00~20:45 八重の桜HP http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/
第22話あらすじ
1868(慶応4)年、新政権に降伏した徳川慶喜は、会津を江戸から追い払った。同年2月、わずかな供回りだけで国許に戻ることになった容保は、家臣たちに江戸引き上げのことを託すと、皆を置いて大阪を出たことを詫びる。
ほどなくして藩士たちも江戸から会津に戻って行く。八重とうらは覚馬と三郎の帰りを待ちわびていたが、戻ってきたのは尚之助だけであった。尚之助は、家老頼母の指示を受け、最新の戦術を学ぶため江戸に遣わされていたのだった。山本家に戻った尚之助は家族の前で三郎の遺品を広げて話し出す。三郎は鳥羽伏見の初陣で勇敢に戦い命を落としたこと、覚馬は御所の戦で目を患い参戦していなかったが、開戦の日、薩摩兵に捕えられ四条河原で処刑されたこと。そんなのは嘘だ、三郎とは人違いだと言い張っていた八重も、縫い付けてやったお守り代わりの南天刺繍をみとめ愕然とする。激しく動揺する八重を父・権八は一喝し 三郎も覚馬も山本家の男として恥ずるところはない、と言い、二人の最期を確認した尚之助に頭を下げ礼を言うのだった。うらが台所に駆けこんで母と泣く一方で、八重は泣いているときではないと自身に言い聞かせ、三郎の仇を討つために尚之助に洋式調練を教えて欲しいと願い出る。
朝廷の錦旗を掲げる新政府軍に いっせいに恭順を示した西国諸藩と違って、関東は依然徳川方の巣窟のままだったことから、新政府軍は早々に江戸城を落とし、幕府の残党狩りに出ようとしていた。その場で甲州攻めを言いつけられた乾退助は、岩倉具視のすすめで 敵を平定する策として、先祖の板垣駿河守にあやかり、以降 板垣姓を名乗ることになる。
同じころ覚馬は、同じく薩摩藩士に捕らえられた弟子の野沢と獄中にいた。大垣屋と共に覚馬を訪ねた時栄は、腰を打たれ足も動かなくなった覚馬に茫然となる。視力を失いながらも、それでも魂の叫びのように何度も会津救済を願い出る覚馬。その覚馬の執念ともいうべき嘆願書は、いずれ西郷の目の届くところとなる。※万国公法についての言及が、目にとまったからだ。
会津に戦雲が迫る中、鶴ヶ城では、恭順派の頼母と抗戦派の佐川が、容保の前で激論を繰り広げていたが、鳥羽伏見の戦で負け戦の責めを一身に背負わされて自刃した神保修理の父・内蔵助が、いわれなき朝敵の汚名を被ったまま恭順しては武士の一分、会津の面目が立たないと言上し、容保の気持ちを固めさせる。修理を死なせてしまったことを悔い、容保は養子喜徳に家督を譲り、御薬園で自身を責めながら蟄居のような暮らしをしていた。今では、修理に敗戦の非は無かったことは誰もが知っている。朝廷を重んじ恭順を貫くことを決定し、容保は、それでもなお攻められたときは全藩挙げて戦うことを表明する。
その後会津は天明以来の長沼流軍学を捨て、尚之助や大蔵の指揮のもと、フランス式の軍学、体練にいそしむことになる。部隊は年齢別に「玄武隊(老人)」「青龍隊(中年)」「朱雀隊(青年)」「白虎隊(17才以下少年)」に分けられ、砲兵隊、遊撃隊を加えて3000人の正規軍が結成された。
一方、京では左大臣・九条道孝を総督に据え、奥羽鎮撫使が出陣しようとしていた。九条は錦旗を背にしょっただけのいわば傀儡であったが、薩摩、長州にとっては新政府の威信を示し何としてでも会津を討つための、必要不可欠の旗印であった。奥羽鎮撫使とは名ばかりで、実態は全くの討伐軍にほかならない。
軍制改革が始まると、白虎隊士の伊藤悌次郎や山川健次郎、時尾の弟・盛之助などが熱心に銃の訓練に八重のもとに通い始めた。兄と弟の訃報を聞いた後 気丈にふるまっていた八重だったが、悌次郎に鉄砲を教えながら、思わず「三郎」と呼んでしまい、いきなり角場を飛び出していく。
その頃、江戸の薩摩藩邸にいた西郷を、幕府方総裁の勝海舟が兵を連れずに訪ねていた。勝は、6つの講和条約を書いた嘆願書を読み上げると江戸城総攻撃の取りやめを願い出る。対して西郷がそんな条件では退けんと答えると「立場が逆だったら、主君の首を差し出せるのか」と問い、※万国公法では、恭順した敗者に死罪を命じないことを説き、一身に変えてでも江戸城は無事に引き渡すことを約束する。以前より勝を尊敬し信頼していた西郷は、征討総督達に伝令を送り、翌日の江戸城総攻め取りやめを命じる。
だが一方で、西郷は、薩長の怒りの矛先ーー振り上げた拳をどこのおろしたらよいのか、という謎かけを冷ややかな笑いと共にこぼすのであった。
・・・ということで、次回は第23話「会津を救え」です。
※無血開城を約束し勝海舟が提示した6つの講和条件とは
1.徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する
2.慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない
3.武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し出す
4.城内居住の者は、場外に移って謹慎する
5.江戸城明渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う
6.暴発の土民鎮定の件は可能な限り努力する
※万国公法とは・・・国際社会が遵守すべき法規と、理念として世界中の国家が平等である権利を有することを説いたもので、幕末から中国から伝わり、有識者が競って読み、あたかも経典のような権威があった。
第22話ぷち・ギャラリー
届いた三郎の軍服
死ぬはずがねぇ。尚之助さまは、なじょしてそんな嘘を言うんだべ!?
八重ッ!! 尚之助殿、息子たちの最期確かめてくれてありがとうごぜえました。
両名とも山本家の男として恥ずるところはねぇと存ずる・・・
母・佐久と妻・うらの悲しみ
お・・おっかさま~ う・・うう~っ うっう
父の悲しみ 三郎が毎日火を入れていた作業場のかまどに蹲り・・・
三・・・郎 ううぅ
三郎のかたきは、わだすが討づ!!
<八重の悲しみ>
「三郎!まだ筒先がブレてるがし!」白虎隊の悌次郎を亡き三郎と思い込んでしまう八重
「お八重さま・・? 俺は、三郎様ではねえがえがし・・?」
ダダダーッ
どすっ 訪ねてきた大蔵にぶつかり・・・
や、八重さん!?
八重さんっ!!銃を持っでどごに!?
三郎のかたきを討つんだし!
そこに夫登場
「行っちゃ駄目だ!」「三郎~ッ!!」
誰を撃つというのです!?八重さんっ!しっかりしなさい!
ひし! 妻を抱きかかえる尚之助
う・・ううっ ううう~っ 堰をきったように溢れ出る涙
・・・・
大蔵カワイソ
なんかヘンテコリンな新政府軍の制服
新政府の威信を示すため、なんであろうと会津をば討つ!
阿修羅のような形相の世良修蔵 顔面凶器・・こ、こわいっ
降伏の条件は、容保の首を差し出すこと!ただそれのみ!
逃げの小五郎が、攻めの小五郎に 「いよいよ新政府の力を満天下に示すときじゃ!」
西郷らを参謀とする総督府は錦の御旗を押し立て東国へ進軍
容保の決断 会津はあくまで恭順を貫く・・・元より朝廷に刃向う心はない。
ただし、攻めてくるなら全藩をもってこれと戦う・・!
三の丸の練兵場 フランス式教練で朱雀隊に号令する尚之助
次~、後ろ向きかけあーし!
<江戸城と徳川慶喜の処遇をめぐり、新政府軍と旧幕府軍の大将顔合わせ>
西郷さん、くどくは言わん・・ただ、立場を替えて考えてみてもらいたい
もし薩摩が破れていたら、あんたはご主君の首を討って差し出せるか?
あの屋根のひとつひとつの下には人間が住んでいるんだ・・我々とは関わりのない無辜の民だ!
あんたが造ろうとしている新国家は、そんな人達から家や命を奪うのか?
それがあんたの目指す国造りか? 「・・・」
さて、そげんなれば、振り上げた拳をばどげ降ろすかじゃな
覚馬の書いた嘆願書「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」を読み、牢にやってきた西郷
さ、西郷か? 討つな!会津を滅ぼすな!
俺の首を斬れ!俺を斬って会津を助けてくれ!西郷~~!!
八重の桜、こんなところが好き!感想&雑記
先週が悲しみのピークだったので、今回は少し冷静に観れました。
それでも、三郎や覚馬の死が家族に伝えられ、弟の名を呼んで飛び出していく八重の行動を止める尚之助を見るのが切ない・・・その三郎の指揮官だった大蔵は、愛する八重の悲しみを目の当たりにしてもっと切なかった筈。
八重のふくれあがる復讐への思いを見ることも・・・。
いつだって、戦争で親兄弟をなくした女たちの思いは、こんなふうなのでしょう。女ばかりではない、声を殺して泣く父の慟哭も・・・権八役の松重さん、名優ですね。
悲報だらけの山本家。会津の人が続々と帰国してきていますが、山本家や神保家にもたらされるのは涙ばかり。
それでも、神保内蔵助の声なき涙は美しかった。
負け戦の責めを一身に背負って腹切った息子の修理同様、父の内蔵助も繰り言を一切もらさなかった。その内蔵助が声を振り絞って言った「武士の一分」「会津の面目」という言葉は輝いていました。言葉が光の様に、同胞たちの胸に差し込んでいく・・・
そしてそれは、容保の胸にも、ずしんと響いた筈。
ついに、恭順という名の元に、全藩あげて戦う決意を固める容保のうるんだ目もまた、美しかった。
恭順か抗戦かーーどちらの立場も辛いもの。
今回は何と言っても世紀の会談といってもよい、無血開城の顔合わせ。
征討軍参謀で江戸城総攻撃の指揮官西郷に対し、旧幕府の重臣・勝もまた江戸城を守る実質的な指揮官。
いわば、相手本陣に敵方の大将がひとり丸腰でやってきた訳ですね。
学問二流、はったり一流、胆力超一流の勝先生。
あんないい加減なのに、 あんなに正しく人を見ることができて、気難しいのに社交性がある。
そんな彼が日本の行く末を担ったことは日本の幸運ですね。
勝海舟の時代を見る目と同じくスピーディな江戸っ子べらんめい口調が、またいい。
海舟役の生瀬さんは、22話の 世紀の会談に臨むあたり、どういうテンションでやろうかと考えたときに、西郷という怪物を治めるためにいちばん大事なのは“パワーとスピード”かな、と感じたというから凄い。
勝という人物は、ブレーキをかけてから何キロも進んじゃうタンカーみたいな人だと思うので、それを最大限に出していければと思って挑んだそうです。
坂本龍馬も、『海舟座談』の巌本善治も、 最初は勝海舟を敵視して対面したのに、 いつの間にか虜にされてしまったという エピソードを聞いただけでも、その魅力が 伝わってきます。そんな勝先生の説得だからこそ、西郷も一も二もなく徳川に振り下ろす矛を収めたので 、江戸に住む無辜の民たちが戦火からまぬがれた。
でなければ、壮絶な内戦の末に、今の北朝鮮と韓国のごとく日本が東西に分裂していたかもしれない。また、そこまで行かずとも日清・日露の戦役を乗り切るほどの国力が残っていたかどうか・・・結果としては、日本にとって大きな意味が有ります。
また、江戸の街が残ったことで、 東京への移行も簡単だった。
それを考えると、勝先生の功績は評価してもし足りないところがありますね。
また、これは、西郷の大英断だったと言えます。
勝も、聞く耳持って矛をおさめてくれた西郷をとても買っていて、維新後、地に落ちてしまった西郷の名誉回復につとめ、洗足池には「南州(西郷隆盛)をたたえる碑」がありました。
板垣退助の苗字の件は、ドラマで初めて知りました。なるほどこんな理由で・・・と、そのとおりですが、岩倉の発案だったとは。やはり彼は怪物ですね。
しかし、500円札が100円札に姓を替えろ、と命じる・・・可笑しいですね。
岩倉が乾(板垣)に助言したことが、後世の私達にも影響があるなんて、歴史の洒落たいたずらみたいなものを感じます。
ブレーキをかけてから何キロも進んじゃうタンカーというのはむしろ西郷のように思いますが、その西郷を黙らせたのが「万国公法」。これは魔法の言葉ですね。
勝も覚馬も「万国公法」を引き合いにだし、江戸は救われましたが、われらが会津は・・・
西郷どんが江戸攻めをやめて「振り上げたこぶしをば、どけぇおろすかじゃな」と言ったとき、
「自分の頭におろしなんしょ!」と叫んでしまったのは、私だけでしょうか。
キャスティング❤今日のフィーチャー
出番少ないけど、超濃いインパクトだった、土佐、長州のキーマンをフォーカス!
土佐のキーマン、加藤雅也さん演じる板垣退助
いつも出番は少ないのに、ものすごい濃い陰影を醸し出すカトマサ/板垣、もとい乾退助。
甲斐地方を平定させるために、先祖の七光りを利用するよう、「板垣」姓に改名をすすめる岩倉具視の言うとおり、板垣退助で新政府デビュー。
対旧幕府軍の戦では新政府軍として一歩出遅れた土佐の命運をかけて、甲州平定に向かう。先祖の七光りというのは、板垣駿河守:いたがきするがもり(1489~1548)のことで、武田信玄とその父信虎二代仕えた名将をさしたもの。武田四天王、および武田二十四将と謳われ勲功をあげたが上田原の戦いで戦死。板垣駿河守の孫が山内家の重臣・乾家の養子になったと言われ、明治時代の自由民権運動家の板垣退助は、駿河守直系の子孫と称し、板垣に改名した。
乾退助時代 板垣退助誕生
⇒
その退助演じる加藤雅也さん、板垣が前面に出てくる作品が少なく、見る人の固定観念が無い分、演じやすさを感じていると言います。「会津戦争は、板垣が自由民権運動を推進するきっかけとなった戦です。新政府軍は、身分の低い者から情報を売ってもらって、戦で勝利を収めることができたと言われています。そのときに板垣は、いくら攻めても下から情報が漏れてしまっては勝てないと悟ったのです。身分の差が戦のあしかせになっていると感じ、維新後に訪れた外国での経験を通して、身分制度の廃止を訴えるようになり、自由民権運動へとつながるターニングポイントだった」と、述べています。 100円札にも描かれ「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を残した民権運動の父を育んだ経験は、会津にあったのですね!由緒正しく華々しい先祖を持ちながら、下々の言葉に耳を傾け、いま私たちが生きるデモクラシーの基盤を築いてくれた板垣を颯爽と演じる加藤雅也さんです。
長州のキーマン、世良修蔵
一度見たら忘れられない、阿修羅のような形相、この眼光・・・顔面凶器と謳われた小沢仁志さん
ハマリ役ですね!そうです、やはり戦のきっかけとなった人物です(^^;)
世良修蔵;幕末の長州藩士。騎兵隊の書記・軍監に就任。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督府の下参謀となり、仙台藩に会津藩攻撃を命ずる強硬論を説いた。福島に滞在中、会津藩に対する寛典(寛大な処置)を請う仙台藩よりの使者が送られたが、これを拒否。恨みを受け、旅宿で捕えられ斬殺される。世良の死をきっかけに、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍の戦争が始まってしまう。
八重の桜あらかると 尚之助と八重の、愛のゆくえ
ハッキリ言って、いま八重の桜を見ている女性達の関心事って、八重と尚之助の行く末だと思いますが、皆さんいかがでしょう。八重は京都で新島襄と再婚するので、尚之助とは別れてしまうのはわかりきっているのですが、身も心も会津の人となり、こんなにも会津に尽くし、山本家に尽くし、八重を愛し支えた夫の尚之助がどうして離婚という道を辿ったのか、美雨も気にならずにいられませんでした。
しかし最近になって、戊辰戦争あとの八重の消息や尚之助のあらたな足取りや書簡記録が(八重の桜効果でしょうか?)あちこちから見つかって、本当の別れの理由、その愛の深さを思い知る記録が、脚本の山本むつみさんの手元に続々と届いているといいます。 さすがは近代、負け戦の常で焼失してしまった筈の記録が残っていて、こうして善意ある人々から届くと言うのも、ふたりの愛の真実の力かもしれませんね。
そこで、尚之助の行く末に関する、とれとれの山本むつみさんの報告とシナリオの方向性を、美雨ブログでも紹介してみます。
尚之助は、資料が殆ど見当たらなかった人の筆頭です。以前は籠城戦のあと会津を捨てトンズラしたという俗説までありましたが、そんなはずはありません。ドラマをご覧になっている方はお解りだと思いますが、八重と庄之助は互いに尊敬しあう、実に仲睦まじい夫婦であったと思います。演じているお二人の初々しい夫婦らしさが、私も大好きなんです。お似合いの二人が別れてしまうなんて可哀そうという声を、しばしばいただくのですが、二人がどんな形で別れを決断したとしても、すべてはお互いを思いやる気持ちからのことです。
by 山本むつみ 脚本家が語る『八重の桜」より抜粋
八重の米沢への出稼ぎ判明を報じる新聞
豊岡市にある尚之助の供養碑
今まで殆ど知られなかった川崎夫婦の戦後の足取りが、少しずつ詳しく解り始めているなか、尚之助&八重伝説エピソードの内容を、解説本からダイジェストしてみました。中には、会津戦争後、離れ離れになった八重と尚之助が4年後に東京で再会を果たしている、という夢のような(?)エピソードも。実話でないかもしれせんが、二人の間には、男女の壁を超えて互いを敬い合う、同志のような思い遣りがあった気がします。(産経新聞出版NIKKO MOOK八重の桜)
<八重のおもしろエピソード集より>
会津戦争で自宅を失った八重は、戊辰戦争前に尚之助に師事し砲術修行しいていた内藤新一郎の助けで、一時、彼の米沢宅に寄宿し、出稼ぎをしていました。尚之助はこんなふうに八重が生きるための人脈のパイプを残してくれていたのですね。尚之助自身は、他の会津藩士同様、猪苗代を経て、東京で謹慎、放免された後は、会津藩士たちが移住させられた斗南藩におもむき、困窮する会津の移住者のための米の調達に尽力します。しかし、尚之助は仲介業者の詐欺に遭い、罪もないのにその責任を一身に背負います。そのため外国商人から訴えられ、東京に送られてしまいます。いっさい「会津藩は無関係」とし、罪をかぶろうと覚悟していた尚之助のもとに、何も知らずに八重と覚馬が訪ねてきたエピソードが残されています。このときの尚之助は見るも無残に痩せこけ、会津戦争で大砲隊を指揮していた面影はありませんでした。そんな尚之助に、覚馬は「京都の復興に力を貸してほしい」と頼み、八重も「京都で暮らしましょう」と頼みます。しかし、裁判があるため東京を離れられない尚之助は、「塾で勉強を教えている子供達を置いていけないから」とうそぶき、裁判のことはおくびにも出さずに、八重たちの申し出を断ってしまいます。じっさいの尚之助は、斗南藩から給料を貰っておらず、裁判所から支給されるわずかな金で生活をしていたため、医者にもかかれず、食事にも困る生活をしていました。その二年後、尚之助は心労から肺炎を患い、病死します。奇しくも八重が新島襄と婚約した年でした。
まるで、会津ゆくすえと八重の未来のしあわせを見守るように、身一つ犠牲にすればいいことじゃないか、とばかりの潔い男の人生・・・最後に八重を見送った尚之助の眼には、一点の曇りもなかったことでしょう。
愛しているからこその別れ・・・
人間であればこそ、そんな別れもまた、あるのでしょうか。
涙
尚之助に関するレビューはこちらを参照
30話クリックhttp://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1055.html
31話クリックhttp://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1060.html
33話クリックhttp://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1069.html
美雨のぷち・八重の桜紀行その⑪
桜の傘咲く「八重の桜」オープニング・バックの地をたずねて
美雨の大好きな磐梯山、天鏡台を訪ねてきました❤
やんごとなき稀びとに、天を写すこと鏡の如し・・・と歌われた、磐梯猪苗代、天鏡台。
360度美しく、迦陵頻伽のように鳥たちが合唱し、どこかダヴィンチの描く絵の背景のように神々しい、不思議な空間・・・そこが天鏡台です。でも、ここはリゾート地として整備されいるので、撮影にはふさわしくありません。そこで、すぐ隣の何もない牧場の一部で、370人の現地児童を集めて撮影したようです。
・・・と、猪苗代リゾートサンピアのスタッフさんにお聞きしました。^^ なんと、撮影の日にはレストハウス(冬はスキー場)でカレーを400食サービスしたそうです。
'13年春、携帯で撮影
370人の着物と傘、動員したスタッフや先生、親御さん等さぞ大変でしたでしょうね。
おかげで、磐梯山を彩るように桜色に咲くあの無数の傘帽子を楽しめるわけですが、偶然の様にそこを知ったときは、感無量でした。
京都の職人の手による370もの和傘を次々と開き、緑の大地を桜色に染めていくシーンに、未来を切り開く子供たちが福島に”希望の花”を咲かせるメッセージが、聞こえてきますね。
美雨
「八重の桜」各話あらすじ&感想
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
❤今日もありがとう❤
山桜と磐梯 天鏡台にて
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第22話あらすじ
1868(慶応4)年、新政権に降伏した徳川慶喜は、会津を江戸から追い払った。同年2月、わずかな供回りだけで国許に戻ることになった容保は、家臣たちに江戸引き上げのことを託すと、皆を置いて大阪を出たことを詫びる。
ほどなくして藩士たちも江戸から会津に戻って行く。八重とうらは覚馬と三郎の帰りを待ちわびていたが、戻ってきたのは尚之助だけであった。尚之助は、家老頼母の指示を受け、最新の戦術を学ぶため江戸に遣わされていたのだった。山本家に戻った尚之助は家族の前で三郎の遺品を広げて話し出す。三郎は鳥羽伏見の初陣で勇敢に戦い命を落としたこと、覚馬は御所の戦で目を患い参戦していなかったが、開戦の日、薩摩兵に捕えられ四条河原で処刑されたこと。そんなのは嘘だ、三郎とは人違いだと言い張っていた八重も、縫い付けてやったお守り代わりの南天刺繍をみとめ愕然とする。激しく動揺する八重を父・権八は一喝し 三郎も覚馬も山本家の男として恥ずるところはない、と言い、二人の最期を確認した尚之助に頭を下げ礼を言うのだった。うらが台所に駆けこんで母と泣く一方で、八重は泣いているときではないと自身に言い聞かせ、三郎の仇を討つために尚之助に洋式調練を教えて欲しいと願い出る。
朝廷の錦旗を掲げる新政府軍に いっせいに恭順を示した西国諸藩と違って、関東は依然徳川方の巣窟のままだったことから、新政府軍は早々に江戸城を落とし、幕府の残党狩りに出ようとしていた。その場で甲州攻めを言いつけられた乾退助は、岩倉具視のすすめで 敵を平定する策として、先祖の板垣駿河守にあやかり、以降 板垣姓を名乗ることになる。
同じころ覚馬は、同じく薩摩藩士に捕らえられた弟子の野沢と獄中にいた。大垣屋と共に覚馬を訪ねた時栄は、腰を打たれ足も動かなくなった覚馬に茫然となる。視力を失いながらも、それでも魂の叫びのように何度も会津救済を願い出る覚馬。その覚馬の執念ともいうべき嘆願書は、いずれ西郷の目の届くところとなる。※万国公法についての言及が、目にとまったからだ。
会津に戦雲が迫る中、鶴ヶ城では、恭順派の頼母と抗戦派の佐川が、容保の前で激論を繰り広げていたが、鳥羽伏見の戦で負け戦の責めを一身に背負わされて自刃した神保修理の父・内蔵助が、いわれなき朝敵の汚名を被ったまま恭順しては武士の一分、会津の面目が立たないと言上し、容保の気持ちを固めさせる。修理を死なせてしまったことを悔い、容保は養子喜徳に家督を譲り、御薬園で自身を責めながら蟄居のような暮らしをしていた。今では、修理に敗戦の非は無かったことは誰もが知っている。朝廷を重んじ恭順を貫くことを決定し、容保は、それでもなお攻められたときは全藩挙げて戦うことを表明する。
その後会津は天明以来の長沼流軍学を捨て、尚之助や大蔵の指揮のもと、フランス式の軍学、体練にいそしむことになる。部隊は年齢別に「玄武隊(老人)」「青龍隊(中年)」「朱雀隊(青年)」「白虎隊(17才以下少年)」に分けられ、砲兵隊、遊撃隊を加えて3000人の正規軍が結成された。
一方、京では左大臣・九条道孝を総督に据え、奥羽鎮撫使が出陣しようとしていた。九条は錦旗を背にしょっただけのいわば傀儡であったが、薩摩、長州にとっては新政府の威信を示し何としてでも会津を討つための、必要不可欠の旗印であった。奥羽鎮撫使とは名ばかりで、実態は全くの討伐軍にほかならない。
軍制改革が始まると、白虎隊士の伊藤悌次郎や山川健次郎、時尾の弟・盛之助などが熱心に銃の訓練に八重のもとに通い始めた。兄と弟の訃報を聞いた後 気丈にふるまっていた八重だったが、悌次郎に鉄砲を教えながら、思わず「三郎」と呼んでしまい、いきなり角場を飛び出していく。
その頃、江戸の薩摩藩邸にいた西郷を、幕府方総裁の勝海舟が兵を連れずに訪ねていた。勝は、6つの講和条約を書いた嘆願書を読み上げると江戸城総攻撃の取りやめを願い出る。対して西郷がそんな条件では退けんと答えると「立場が逆だったら、主君の首を差し出せるのか」と問い、※万国公法では、恭順した敗者に死罪を命じないことを説き、一身に変えてでも江戸城は無事に引き渡すことを約束する。以前より勝を尊敬し信頼していた西郷は、征討総督達に伝令を送り、翌日の江戸城総攻め取りやめを命じる。
だが一方で、西郷は、薩長の怒りの矛先ーー振り上げた拳をどこのおろしたらよいのか、という謎かけを冷ややかな笑いと共にこぼすのであった。
・・・ということで、次回は第23話「会津を救え」です。
※無血開城を約束し勝海舟が提示した6つの講和条件とは
1.徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する
2.慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない
3.武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し出す
4.城内居住の者は、場外に移って謹慎する
5.江戸城明渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う
6.暴発の土民鎮定の件は可能な限り努力する
※万国公法とは・・・国際社会が遵守すべき法規と、理念として世界中の国家が平等である権利を有することを説いたもので、幕末から中国から伝わり、有識者が競って読み、あたかも経典のような権威があった。
第22話ぷち・ギャラリー
届いた三郎の軍服
死ぬはずがねぇ。尚之助さまは、なじょしてそんな嘘を言うんだべ!?
八重ッ!! 尚之助殿、息子たちの最期確かめてくれてありがとうごぜえました。
両名とも山本家の男として恥ずるところはねぇと存ずる・・・
母・佐久と妻・うらの悲しみ
お・・おっかさま~ う・・うう~っ うっう
父の悲しみ 三郎が毎日火を入れていた作業場のかまどに蹲り・・・
三・・・郎 ううぅ
三郎のかたきは、わだすが討づ!!
<八重の悲しみ>
「三郎!まだ筒先がブレてるがし!」白虎隊の悌次郎を亡き三郎と思い込んでしまう八重
「お八重さま・・? 俺は、三郎様ではねえがえがし・・?」
ダダダーッ
どすっ 訪ねてきた大蔵にぶつかり・・・
や、八重さん!?
八重さんっ!!銃を持っでどごに!?
三郎のかたきを討つんだし!
そこに夫登場
「行っちゃ駄目だ!」「三郎~ッ!!」
誰を撃つというのです!?八重さんっ!しっかりしなさい!
ひし! 妻を抱きかかえる尚之助
う・・ううっ ううう~っ 堰をきったように溢れ出る涙
・・・・
大蔵カワイソ
なんかヘンテコリンな新政府軍の制服
新政府の威信を示すため、なんであろうと会津をば討つ!
阿修羅のような形相の世良修蔵 顔面凶器・・こ、こわいっ
降伏の条件は、容保の首を差し出すこと!ただそれのみ!
逃げの小五郎が、攻めの小五郎に 「いよいよ新政府の力を満天下に示すときじゃ!」
西郷らを参謀とする総督府は錦の御旗を押し立て東国へ進軍
容保の決断 会津はあくまで恭順を貫く・・・元より朝廷に刃向う心はない。
ただし、攻めてくるなら全藩をもってこれと戦う・・!
三の丸の練兵場 フランス式教練で朱雀隊に号令する尚之助
次~、後ろ向きかけあーし!
<江戸城と徳川慶喜の処遇をめぐり、新政府軍と旧幕府軍の大将顔合わせ>
西郷さん、くどくは言わん・・ただ、立場を替えて考えてみてもらいたい
もし薩摩が破れていたら、あんたはご主君の首を討って差し出せるか?
あの屋根のひとつひとつの下には人間が住んでいるんだ・・我々とは関わりのない無辜の民だ!
あんたが造ろうとしている新国家は、そんな人達から家や命を奪うのか?
それがあんたの目指す国造りか? 「・・・」
さて、そげんなれば、振り上げた拳をばどげ降ろすかじゃな
覚馬の書いた嘆願書「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」を読み、牢にやってきた西郷
さ、西郷か? 討つな!会津を滅ぼすな!
俺の首を斬れ!俺を斬って会津を助けてくれ!西郷~~!!
八重の桜、こんなところが好き!感想&雑記
先週が悲しみのピークだったので、今回は少し冷静に観れました。
それでも、三郎や覚馬の死が家族に伝えられ、弟の名を呼んで飛び出していく八重の行動を止める尚之助を見るのが切ない・・・その三郎の指揮官だった大蔵は、愛する八重の悲しみを目の当たりにしてもっと切なかった筈。
八重のふくれあがる復讐への思いを見ることも・・・。
いつだって、戦争で親兄弟をなくした女たちの思いは、こんなふうなのでしょう。女ばかりではない、声を殺して泣く父の慟哭も・・・権八役の松重さん、名優ですね。
悲報だらけの山本家。会津の人が続々と帰国してきていますが、山本家や神保家にもたらされるのは涙ばかり。
それでも、神保内蔵助の声なき涙は美しかった。
負け戦の責めを一身に背負って腹切った息子の修理同様、父の内蔵助も繰り言を一切もらさなかった。その内蔵助が声を振り絞って言った「武士の一分」「会津の面目」という言葉は輝いていました。言葉が光の様に、同胞たちの胸に差し込んでいく・・・
そしてそれは、容保の胸にも、ずしんと響いた筈。
ついに、恭順という名の元に、全藩あげて戦う決意を固める容保のうるんだ目もまた、美しかった。
恭順か抗戦かーーどちらの立場も辛いもの。
今回は何と言っても世紀の会談といってもよい、無血開城の顔合わせ。
征討軍参謀で江戸城総攻撃の指揮官西郷に対し、旧幕府の重臣・勝もまた江戸城を守る実質的な指揮官。
いわば、相手本陣に敵方の大将がひとり丸腰でやってきた訳ですね。
学問二流、はったり一流、胆力超一流の勝先生。
あんないい加減なのに、 あんなに正しく人を見ることができて、気難しいのに社交性がある。
そんな彼が日本の行く末を担ったことは日本の幸運ですね。
勝海舟の時代を見る目と同じくスピーディな江戸っ子べらんめい口調が、またいい。
海舟役の生瀬さんは、22話の 世紀の会談に臨むあたり、どういうテンションでやろうかと考えたときに、西郷という怪物を治めるためにいちばん大事なのは“パワーとスピード”かな、と感じたというから凄い。
勝という人物は、ブレーキをかけてから何キロも進んじゃうタンカーみたいな人だと思うので、それを最大限に出していければと思って挑んだそうです。
坂本龍馬も、『海舟座談』の巌本善治も、 最初は勝海舟を敵視して対面したのに、 いつの間にか虜にされてしまったという エピソードを聞いただけでも、その魅力が 伝わってきます。そんな勝先生の説得だからこそ、西郷も一も二もなく徳川に振り下ろす矛を収めたので 、江戸に住む無辜の民たちが戦火からまぬがれた。
でなければ、壮絶な内戦の末に、今の北朝鮮と韓国のごとく日本が東西に分裂していたかもしれない。また、そこまで行かずとも日清・日露の戦役を乗り切るほどの国力が残っていたかどうか・・・結果としては、日本にとって大きな意味が有ります。
また、江戸の街が残ったことで、 東京への移行も簡単だった。
それを考えると、勝先生の功績は評価してもし足りないところがありますね。
また、これは、西郷の大英断だったと言えます。
勝も、聞く耳持って矛をおさめてくれた西郷をとても買っていて、維新後、地に落ちてしまった西郷の名誉回復につとめ、洗足池には「南州(西郷隆盛)をたたえる碑」がありました。
板垣退助の苗字の件は、ドラマで初めて知りました。なるほどこんな理由で・・・と、そのとおりですが、岩倉の発案だったとは。やはり彼は怪物ですね。
しかし、500円札が100円札に姓を替えろ、と命じる・・・可笑しいですね。
岩倉が乾(板垣)に助言したことが、後世の私達にも影響があるなんて、歴史の洒落たいたずらみたいなものを感じます。
ブレーキをかけてから何キロも進んじゃうタンカーというのはむしろ西郷のように思いますが、その西郷を黙らせたのが「万国公法」。これは魔法の言葉ですね。
勝も覚馬も「万国公法」を引き合いにだし、江戸は救われましたが、われらが会津は・・・
西郷どんが江戸攻めをやめて「振り上げたこぶしをば、どけぇおろすかじゃな」と言ったとき、
「自分の頭におろしなんしょ!」と叫んでしまったのは、私だけでしょうか。
キャスティング❤今日のフィーチャー
出番少ないけど、超濃いインパクトだった、土佐、長州のキーマンをフォーカス!
土佐のキーマン、加藤雅也さん演じる板垣退助
いつも出番は少ないのに、ものすごい濃い陰影を醸し出すカトマサ/板垣、もとい乾退助。
甲斐地方を平定させるために、先祖の七光りを利用するよう、「板垣」姓に改名をすすめる岩倉具視の言うとおり、板垣退助で新政府デビュー。
対旧幕府軍の戦では新政府軍として一歩出遅れた土佐の命運をかけて、甲州平定に向かう。先祖の七光りというのは、板垣駿河守:いたがきするがもり(1489~1548)のことで、武田信玄とその父信虎二代仕えた名将をさしたもの。武田四天王、および武田二十四将と謳われ勲功をあげたが上田原の戦いで戦死。板垣駿河守の孫が山内家の重臣・乾家の養子になったと言われ、明治時代の自由民権運動家の板垣退助は、駿河守直系の子孫と称し、板垣に改名した。
乾退助時代 板垣退助誕生
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その退助演じる加藤雅也さん、板垣が前面に出てくる作品が少なく、見る人の固定観念が無い分、演じやすさを感じていると言います。「会津戦争は、板垣が自由民権運動を推進するきっかけとなった戦です。新政府軍は、身分の低い者から情報を売ってもらって、戦で勝利を収めることができたと言われています。そのときに板垣は、いくら攻めても下から情報が漏れてしまっては勝てないと悟ったのです。身分の差が戦のあしかせになっていると感じ、維新後に訪れた外国での経験を通して、身分制度の廃止を訴えるようになり、自由民権運動へとつながるターニングポイントだった」と、述べています。 100円札にも描かれ「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を残した民権運動の父を育んだ経験は、会津にあったのですね!由緒正しく華々しい先祖を持ちながら、下々の言葉に耳を傾け、いま私たちが生きるデモクラシーの基盤を築いてくれた板垣を颯爽と演じる加藤雅也さんです。
長州のキーマン、世良修蔵
一度見たら忘れられない、阿修羅のような形相、この眼光・・・顔面凶器と謳われた小沢仁志さん
ハマリ役ですね!そうです、やはり戦のきっかけとなった人物です(^^;)
世良修蔵;幕末の長州藩士。騎兵隊の書記・軍監に就任。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督府の下参謀となり、仙台藩に会津藩攻撃を命ずる強硬論を説いた。福島に滞在中、会津藩に対する寛典(寛大な処置)を請う仙台藩よりの使者が送られたが、これを拒否。恨みを受け、旅宿で捕えられ斬殺される。世良の死をきっかけに、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍の戦争が始まってしまう。
八重の桜あらかると 尚之助と八重の、愛のゆくえ
ハッキリ言って、いま八重の桜を見ている女性達の関心事って、八重と尚之助の行く末だと思いますが、皆さんいかがでしょう。八重は京都で新島襄と再婚するので、尚之助とは別れてしまうのはわかりきっているのですが、身も心も会津の人となり、こんなにも会津に尽くし、山本家に尽くし、八重を愛し支えた夫の尚之助がどうして離婚という道を辿ったのか、美雨も気にならずにいられませんでした。
しかし最近になって、戊辰戦争あとの八重の消息や尚之助のあらたな足取りや書簡記録が(八重の桜効果でしょうか?)あちこちから見つかって、本当の別れの理由、その愛の深さを思い知る記録が、脚本の山本むつみさんの手元に続々と届いているといいます。 さすがは近代、負け戦の常で焼失してしまった筈の記録が残っていて、こうして善意ある人々から届くと言うのも、ふたりの愛の真実の力かもしれませんね。
そこで、尚之助の行く末に関する、とれとれの山本むつみさんの報告とシナリオの方向性を、美雨ブログでも紹介してみます。
尚之助は、資料が殆ど見当たらなかった人の筆頭です。以前は籠城戦のあと会津を捨てトンズラしたという俗説までありましたが、そんなはずはありません。ドラマをご覧になっている方はお解りだと思いますが、八重と庄之助は互いに尊敬しあう、実に仲睦まじい夫婦であったと思います。演じているお二人の初々しい夫婦らしさが、私も大好きなんです。お似合いの二人が別れてしまうなんて可哀そうという声を、しばしばいただくのですが、二人がどんな形で別れを決断したとしても、すべてはお互いを思いやる気持ちからのことです。
by 山本むつみ 脚本家が語る『八重の桜」より抜粋
八重の米沢への出稼ぎ判明を報じる新聞
豊岡市にある尚之助の供養碑
今まで殆ど知られなかった川崎夫婦の戦後の足取りが、少しずつ詳しく解り始めているなか、尚之助&八重伝説エピソードの内容を、解説本からダイジェストしてみました。中には、会津戦争後、離れ離れになった八重と尚之助が4年後に東京で再会を果たしている、という夢のような(?)エピソードも。実話でないかもしれせんが、二人の間には、男女の壁を超えて互いを敬い合う、同志のような思い遣りがあった気がします。(産経新聞出版NIKKO MOOK八重の桜)
<八重のおもしろエピソード集より>
会津戦争で自宅を失った八重は、戊辰戦争前に尚之助に師事し砲術修行しいていた内藤新一郎の助けで、一時、彼の米沢宅に寄宿し、出稼ぎをしていました。尚之助はこんなふうに八重が生きるための人脈のパイプを残してくれていたのですね。尚之助自身は、他の会津藩士同様、猪苗代を経て、東京で謹慎、放免された後は、会津藩士たちが移住させられた斗南藩におもむき、困窮する会津の移住者のための米の調達に尽力します。しかし、尚之助は仲介業者の詐欺に遭い、罪もないのにその責任を一身に背負います。そのため外国商人から訴えられ、東京に送られてしまいます。いっさい「会津藩は無関係」とし、罪をかぶろうと覚悟していた尚之助のもとに、何も知らずに八重と覚馬が訪ねてきたエピソードが残されています。このときの尚之助は見るも無残に痩せこけ、会津戦争で大砲隊を指揮していた面影はありませんでした。そんな尚之助に、覚馬は「京都の復興に力を貸してほしい」と頼み、八重も「京都で暮らしましょう」と頼みます。しかし、裁判があるため東京を離れられない尚之助は、「塾で勉強を教えている子供達を置いていけないから」とうそぶき、裁判のことはおくびにも出さずに、八重たちの申し出を断ってしまいます。じっさいの尚之助は、斗南藩から給料を貰っておらず、裁判所から支給されるわずかな金で生活をしていたため、医者にもかかれず、食事にも困る生活をしていました。その二年後、尚之助は心労から肺炎を患い、病死します。奇しくも八重が新島襄と婚約した年でした。
まるで、会津ゆくすえと八重の未来のしあわせを見守るように、身一つ犠牲にすればいいことじゃないか、とばかりの潔い男の人生・・・最後に八重を見送った尚之助の眼には、一点の曇りもなかったことでしょう。
愛しているからこその別れ・・・
人間であればこそ、そんな別れもまた、あるのでしょうか。
涙
尚之助に関するレビューはこちらを参照
30話クリックhttp://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1055.html
31話クリックhttp://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1060.html
33話クリックhttp://yonipo.blog13.fc2.com/blog-entry-1069.html
美雨のぷち・八重の桜紀行その⑪
桜の傘咲く「八重の桜」オープニング・バックの地をたずねて
美雨の大好きな磐梯山、天鏡台を訪ねてきました❤
やんごとなき稀びとに、天を写すこと鏡の如し・・・と歌われた、磐梯猪苗代、天鏡台。
360度美しく、迦陵頻伽のように鳥たちが合唱し、どこかダヴィンチの描く絵の背景のように神々しい、不思議な空間・・・そこが天鏡台です。でも、ここはリゾート地として整備されいるので、撮影にはふさわしくありません。そこで、すぐ隣の何もない牧場の一部で、370人の現地児童を集めて撮影したようです。
・・・と、猪苗代リゾートサンピアのスタッフさんにお聞きしました。^^ なんと、撮影の日にはレストハウス(冬はスキー場)でカレーを400食サービスしたそうです。
'13年春、携帯で撮影
370人の着物と傘、動員したスタッフや先生、親御さん等さぞ大変でしたでしょうね。
おかげで、磐梯山を彩るように桜色に咲くあの無数の傘帽子を楽しめるわけですが、偶然の様にそこを知ったときは、感無量でした。
京都の職人の手による370もの和傘を次々と開き、緑の大地を桜色に染めていくシーンに、未来を切り開く子供たちが福島に”希望の花”を咲かせるメッセージが、聞こえてきますね。
美雨
「八重の桜」各話あらすじ&感想
http://yonipo.blog13.fc2.com/blog-category-81.html
❤今日もありがとう❤
山桜と磐梯 天鏡台にて
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竜宮小僧の旅案内
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- at 21:01
- [NHK大河ドラマ 八重の桜]
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ナギさま
ナギさんは、大蔵ファンなのですね~!
息子がまだ小っちゃかったとき、大好きなガオレンジャーの銀獅子(シルバー)見てました。
一昔前は、ヒーローもので顔を売ってしまうと、そのイメージが固定してしまいそれ以後吹かず飛ばず、という事が多かったようですが、今は全く逆で、戦隊ヒーローになるのは、イケメン人気タレントの登竜門のようです。玉鉄さんも、スケール大きく育っているようですね。
伝説の彼岸獅子では(馬に乗って登場?ちょっと寂しい^^;)どんな活躍をするのか楽しみですね(●^o^●)